
この記事では、
和銅5年(712年)に成立したとされる『古事記』と
養老4年(720年)に成立した『日本書紀』について
成立の事情と背景を解説していきます。
・『古事記』が作られた理由
・『日本書紀』が作られた理由
・それぞれを書いた人物



古事記が作られた理由






『古事記』の序文には、編纂の経緯が記載されています。
序文を読むことで、『古事記』成立の背景が見えてくるのです。
ただし、『古事記』の序文は平安時代(9世紀)に
付け加えられた偽文であるという説があり
内容には信憑性がないとも言われています。
序文が偽物であるという可能性を念頭に置いた上で
以下の解説を読んでください。
⇒序文に見られる『古事記』が作られた理由
内容から推測される成立事情も解説しています。
⇒内容からわかる『古事記』の成立事情
序文に見られる『古事記』が作られた理由
道徳教育の目的
『古事記』の序文には次のように、
編纂の意義の一つとして道徳教育があることが語られています。
【原文(書き下し文)】
古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふこと莫し。
【現代語訳】
古代のことを明らかにして、風教道徳がすでに衰えているのを正し、現在の姿を顧みて、道徳の絶えようとするのに参考にならぬものはない。
『古事記』が編纂された時代には、
神話・伝説など古伝承の内容は、
そのまま古代の史実として信じられていたようです。
原文に見える「稽古照今」
(いにしえを省みて、今を照らす)の語が
示すように、古伝承を政治や道徳の
規範にしようという考え方が支配的だったのでしょう。
帝紀・旧辞の誤りを正すため
序文には、天武天皇の治世に
『帝紀』『旧辞』という2つの重要資料の
内容の誤りを正す目的で『古事記』編纂が始まったと
記されています。
【原文(書き下し文)】
ここに天皇詔りたまはく、「朕聞く、諸家の賷てる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて其の失を改めずは、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。
【現代語訳】
そこで天武天皇が仰せられるには、「私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、虚偽を加えたものが多いとのことである。そうだとすると、今この時に、その誤りを改めておかないと、今後何年もたたないうちに、その正しい意味は失われてしまうに違いない。そもそも帝紀と本辞は、国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本となるものである。それゆえ、正しい帝紀をえらんで記録し、旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う」と仰せられた。
帝紀:歴代天皇の名前や皇居の名称、
妃・皇子・皇女のことや、
生没年、御陵所などを記した、
系譜を中心とする記録のこと。
本辞:神話・伝説・歌謡物語など、
伝承された物語を内容とする記録。
西暦645年、乙巳の変の直後の
蘇我蝦夷の自害に伴い、
歴史書を保管していた国庫も燃えてしまいました。
その際に『天皇記』など多くの歴史書も
いっしょに燃えてしまったのです。
天武天皇は、燃えてしまった歴史書に
代わるものとして『古事記』編纂を思い立ち、
『帝紀』『旧辞』の内容の検討が始まったと考えられます。


出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
内容からわかる『古事記』の成立事情



『古事記』の内容を『日本書紀』と比較すると、
『古事記』は律令国家の正史として編纂された
歴史書ではなく、政治とは関係の薄い後宮で
読まれる文学として編纂された歴史書だということが推察されます。



『古事記』の内容には、
『日本書紀』と違って反体制的な物語が見られます。
例えば、ヤマトタケルの人物造形がまったく異なるのです。





『古事記』では反国家的な人物の物語を
美しく書こうとする傾向があります。
それは、『古事記』が律令国家に組み込まれた
対外的な正史ではなく、
律令国家の論理から外れたところで成立し、
妃や皇子らが歴史を学ぶ内向きな文学だったことを表しています。
三谷栄一氏は、『古事記』は表面的には
天武天皇の命令といいながらも、
天武天皇の妃であった(後の)持統天皇の手によって
後宮で集成されていったものなのではないかと論じています。
後宮という場所は、政治や権力とは離れた伝承を
語り伝える場になりえるのです。
そもそも、
律令制度を基盤に国家の体制が整備されようと
していた時期に正史としての『日本書紀』が編纂され、
ほぼ同時期に『古事記』も成立したことは、非常に不可解です。
正史『日本書紀』に並んで、同時期に
もう一つの歴史書『古事記』が編纂された理由は、
後宮で読まれるために編纂されたとしか考えられません。
日本書紀が作られた理由



『古事記』と違って『日本書紀』には序文がなく、
編纂の経緯が詳しくはわかりません。
しかし、『日本書紀』の
天武天皇10年(681年)3月4日に、
天皇が大極殿にて、川嶋皇子・忍壁皇子ら12人に
帝紀および上古の諸事を記し、校訂を命じました。
これが、『日本書紀』編纂の出発点であるとされています。
ただし、編纂の目的・理由までは、記述されていません。






外国人向けの正史を作ろうとした
『古事記』『日本書紀』の文体を比較すると、
『古事記』が紀伝体・変体漢文
(漢文と万葉仮名を混在させたもの)
で書かれているのに対し、
『日本書紀』は天皇を中心とした編年体・
純漢文(中国語)で書かれていることがわかります。



文体 | 書式 | 対象読者 | 成立年 | |
---|---|---|---|---|
古事記 | 紀伝体 | 変体漢文 | 日本人(後宮) | 712年 |
日本書紀 | 編年体 | 純漢文 | 外国人 | 720年 |


出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
『日本書紀』が成立した時代の日本は、
豪族が各地方を支配していた
大和政権(ゆるやかな豪族連合)
から、律令国家の中央集権的支配体制に代わっていく過渡期でした、
大宝律令(701年)で初めて国号として用いられた
「日本」を冠した『日本書紀』は
外国に対する中央集権国家「日本」のアピールとして
編纂された、国家の正史として位置づけられる歴史書だったのです。
『漢書』に匹敵する『日本書』を作ろうとした



中国の正史では、通常「紀」「志」「伝」
の3つが揃った「〇書」と呼ばれる紀伝体の形式をとります。
紀:起源神話と天皇の事績(帝紀)
伝:臣下や人民の事績
志:治世や国土についての記述
三浦佑之氏は、
『日本書紀』のはじめの構想としては、
『漢書』などの中国正史に基づいた
紀・志・伝のそろった「日本書」を目指していた
のではないかと論じています。


出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
ところが、養老4年(720年)に成立したのは「紀(帝紀)」と系図だけでした。
是より先、一品舎人親王、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀三十巻系図一巻なり。
『続日本紀』養老四年五月二十一日
このとき「紀三十巻」の表紙に記されていた
タイトルが、『日本書 紀』であり、
転写を繰り返すうちに空白がなくなり
『日本書紀』というタイトルが固定化された
と推測されているのです。
『日本書紀』は、当初は中国の『漢書』のような
歴史書(日本書)を目指して編纂が開始されました。
ところが、紀・志・伝のうち
「紀」のみが完成し、途中で計画が頓挫して
しまった未完成の歴史書だということになります。
古事記・日本書紀を書いた人は誰?



古事記を書いたのは太安万侶?
序文によると、
『古事記』を書いたのは太安万侶という人物です。
稗田阿礼が誦習した内容を、
太安万侶が書き写し、序文をつける形で
『古事記』は書物として完成しました。
誦習:繰り返し読んで学び覚えること
天武天皇は
帝紀および旧辞の誤りを正すために、
稗田阿礼という人物に誦み習わせました。
そののち、天武天皇は崩御され、
元明天皇が即位。
元明天皇は、稗田阿礼の誦習した内容を
太安万侶に書き写させて献上させました。
太安万侶:
貴族・太朝臣安万侶のことで
神八井耳命(神武天皇の皇子)の後裔と伝えられています。
誕生年は不明ですが、養老7年(723年)に没したことがわかっています。
(墓誌も発見されており、本人の骨が出ています)
平安時代に成立した『弘仁私記』の序によると
太安万侶は『日本書紀』の撰者の一人であると記されています。
序文は平安時代による偽造であると
いう説が正しければ
太安万侶が書いたというのも事実ではない
ということになってしまい、
『古事記』の作者は不明ということになります。
稗田阿礼:
天鈿女命を祖神とする猿女君氏の出身です。
男性とする説もありますが、
柳田国男は稗田氏が猿女君の族であった
ことなどの理由から
稗田阿礼を女性であると説いています。
(柳田国男『妹の力』)
稗田阿礼は一目見ただけで、一度聞いただけで
文章を記憶し音読することができる、聡明な人物でした。
稗田阿礼は『古事記』の編纂に関わり、
帝紀および旧辞の内容を誦習しました。
阿礼が存在していたことを証明する資料はなく、
実在証明が困難な人物とされています。



友田吉之助氏は、鎮魂祭に関わる
旧氏族に属する人物
(猿女君氏もしくは同族の稗田氏)
が『古事記』の撰者であろうと見当をつけています。
天鈿女命を祖先とする猿女君氏は、
もっとも古い祭儀をおこなう旧氏族であるから
猿女氏には古い伝承が伝えられていたものと思われます。
『古事記』の序文が稗田阿礼を誦習者としているのは、
猿女君氏の古伝承に基づいているということを、
暗示したものなのかも知れません。
日本書紀を書いたのは舎人親王
日本書紀の内容には多くの人物が関わっている
と思われますが、最終的に編集作業をまとめたのは、
舎人親王という人物とされています。
是より先、一品舎人親王、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀三十巻系図一巻なり。
『続日本紀』養老四年五月二十一日
舎人親王:676年生~735年没(享年60)
天武天皇の皇子であり、淳仁天皇の父親。
45歳のときに、『日本書紀』を元正天皇に奏上しました。
まとめ
この記事では、『古事記』『日本書紀』が
作られた理由について解説しました。
簡単にまとめると、
『古事記』は後宮で集成され、
国内の人々が読むための歴史書として書かれた。
『日本書紀』は、中国の『漢書』などの
歴史書に匹敵するようなものを作るために
外国人向けに書かれた。
ということになります。

