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・『古事記』の原本が現存しない理由
・『古事記』の写本一覧と解説
・『古事記』の最古の写本の解説
・『古事記』が南北朝時代に
再評価された経緯
この記事を読むことで、『古事記』が
どのような事情、経緯を経て
現代にまで伝わっているのかを理解することができます。
ぜひ最後までお読みください。
古事記の原本はなぜ現存しないのか
『古事記』の原本は現存していません。
『古事記』の最古の写本は、
南北朝時代に写されたものです。
『日本書紀』も原本は現存しておらず、
最古の写本は平安時代(9世紀)に写されたものです。





『古事記』原本が散逸した経緯について
具体的な記録が残っているわけではないので
詳しい事情は分かっていませんが、
次のような理由が考えられます。
時代の経過による物理的な劣化
『古事記』は西暦712年に編纂された
非常に古い文献であり、
原本は当時の素材(おそらく和紙)に書かれましたが、
これらの素材は経年劣化、湿気、虫害などにより
長期間保存することは困難だったと考えられます。
紙の物理的な劣化により、
廃棄されてしまった可能性があります。
戦乱や災害による喪失
日本は古代から中世にかけて戦乱や火災、
地震などの自然災害が多く、
重要な文献が焼失したり
散逸したりするケースが多々ありました。
宮廷や寺社での火災も珍しくありませんでした。
『古事記』の原本もそのような災害で
失われた可能性があります。
写本が優先され、原本が散逸
『古事記』の書き写しが繰り返される中で、
新しい写本のほうが優先されるように
なった結果、古くなった原本は
廃棄されてしまった可能性があります。
室町時代に書かれた『古事記』の
写本(春瑜本)も、
江戸末期に活動した国学者・御巫清直が
ある日自宅の窓から通りを眺めていたところ
紙屑買いの籠の中にあった『古事記』を
たまたま購入したのだそうです。






風土記も『万葉集』も、
あの『源氏物語』でさえも、
原本は現存していないのです。
書き写しを繰り返す中で、
長い年月が流れ、
何らかの事情により
原本は失われていきました。


古事記の写本 一覧



『古事記』の写本は、
真福寺本の系統と、卜部家本の系統の
二つの系統に大別されます。
他の古典に比べると、
二系統間の差異は少ないと言われています。



真福寺本系の諸本
真福寺本系の写本は、次の諸本が現存しています。
| 保管場所 | 現存巻 | 書写年代 | |
|---|---|---|---|
| 真福寺本【国宝】 | 大須観音宝生院 | 上・下 | 応安4、5年(1371年、1372年) |
| 道果本【重要文化財】 | 天理大学 | 上 | 永徳元年(1381年) |
| 道祥本(伊勢本) | 静嘉堂文庫 | 上 | 応永31年(1424年) |
| 春瑜本(伊勢一本)【重要文化財】 | 神宮文庫 | 上 | 応永33年(1426年) |
真福寺本系の諸本の中でも、
国宝の真福寺本は、『古事記』現存最古の写本です。
伊勢出身の能信が開いた真福寺
(現在の大須観音宝生院)
の僧侶である賢瑜が、28歳、29歳の時に
書き写したものです。
奥書には、鎌倉時代後半までの
祖本の情報が記載してあります。


真福寺本は、
上中下の三巻すべてが揃っていますが、
中巻は真福寺本系ではなく、卜部系であり、
上下巻とは別系統の写本である店で注意が必要です。
真福寺本の上下巻の祖本は、
もともと伊勢の祭主家(大中臣氏)が
所有していたものです。
卜部家本系の諸本
卜部家本の系統は、上記の五冊を除く他の全ての
写本です。主な写本は以下の通りです。
| 保管場所 | 現存巻 | 成立年代 | |
|---|---|---|---|
| 真福寺本【国宝】 | 大須観音宝生院 | 中 | 応安4(1371年) |
| 兼永筆本 | 鈴鹿家 | 上・中・下 | 室町時代末 |
| 祐範本 | 前田育徳会 | 上・中・下 | 大永2年(1522年) |
| 梵舜本 | 國學院大學 | 上・中・下 | 室町時代末 |
| 猪熊本 | 猪熊家 | 上・中・下 | 江戸時代初 |
卜部家とは、「日本紀の家」と呼ばれた
京都の一族であり、
室町時代後期に吉田(卜部)兼俱が
「吉田神道」という神道の一流派を形成しました。
吉田神道では「三部の本書」として
『日本書紀』とともに
『古事記』『先代旧事本紀』も重視されていました。



鎌倉時代において、『古事記』の中巻は、
近衛家伝来の書をおさめた
鴨院文庫にしかなく、
非常に入手しづらいものでした。
そのような中、
弘長3年(1263年)に藤原通雅が中巻を手に入れ、
卜部兼文は文永5年(1268年)に通雅から、
文永10年(1273年)には鷹司兼平(鴨院文庫)
から中巻を借りて書写しています。
このことから、
鎌倉時代に既に、卜部家には
『古事記』の写本が伝わっていたと考えられます。
卜部氏が写した中巻の写本は、
藤原氏一条家が借りて書写し、
さらにその写本を
伊勢の祭主家(大中臣氏)が借りて写し、
真福寺本として伝わっていきます。


古事記の最古の写本
上記で説明した通り、
『古事記』最古の写本は、
南北朝時代の1371年~1372年に
写された真福寺本です。
真福寺の僧侶である賢瑜が、
書き写したものなので、真福寺本という
名称で呼ばれています。
真福寺開山の二世である信瑜は、
この頃、盛んに典籍の書写活動を行っていました。
『古事記』の写本も、信瑜が門下の賢瑜に命じて
書写させたものと見られています。



大須観音は元弘3年(1333年)、
僧の能信が創建したお寺ですが、
もともとは現在の岐阜県羽島市大須にありました。
江戸時代に入り慶長17年(1612年)、
徳川家康の命令により
名古屋城下である今の名古屋市大須に移されたのです。
『古事記』最古の写本は、現在も
名古屋の大須観音(真福寺宝生院)の
真福寺文庫(大須文庫)で保管されています。



南北朝時代における古事記の再評価









忘れ去られていた『古事記』
西暦712年に『古事記』が成立した後、
すぐ720年に『日本書紀』が成立しています。
この『日本書紀』の成立によって、
『古事記』は影の薄い存在として隅に追いやられてしまいました。
なぜなら、『日本書紀』は
日本の正史の第一におかれる書物であり
国家事業として編纂されたからです。
それに比べて『古事記』は、
歴代天皇の逸話集に過ぎない内容となっています。


それ以降、『日本書紀』は
「日本書記講莚」という儀式において
天皇の前で講義をされてきました。
奈良時代には1回、平安時代には6回も講莚が
確認されています。
『源氏物語』の作者・紫式部も
「日本紀の御局」と呼ばれていたのように、
『日本書紀』は平安時代の貴族社会において
広く読まれていたことが分かります。
実際に、『日本書紀』の写本は、
平安時代のものが少なからず残っており、
9世紀に写されたものが最古のものとなっています。






中国文化を取り入れた奈良朝の文化は、
平安時代になってさらに磨きがかかり、
平安時代初期には「国風暗黒時代」を招いてしまいます。
正格な漢文で書かれた『日本書紀』が
重んじられ、いくつもの勅撰漢詩文集が編纂されました。
そのような中で、『古事記』は奇跡的にも
散逸の危機を免れ、写し伝えられていました。
それは、家系や先祖調べを大事にする
風潮によるものと考えられます。



『日本書紀』に漏れた異伝が
一部に見られるのが『古事記』の真価であり、
先祖調べに必要な記述があるために
『古事記』全体が書写されててきたと言われています。
戦乱の時代における『古事記』再評価
そして、時代は移り変わり、
保元・平治・治承・承久と
大きな戦乱に見舞われた人々は、
日本古来の神々の力にすがる傾向が強まっていきます。
神々の研究が深まり、
忘れ去られていた『古事記』が再び見いだされ、
再評価されていくのです。
元寇<蒙古襲来>(1274、1281年)という
国家的危機を迎えると民族意識が覚醒され、
更に神国思想が盛り上がります。
神道の研究はいっそう深まり、
卜部氏は室町時代後期に吉田神道を形成します。
そのような神国思想の潮流の中で、
『古事記』の書写の気運が高まっていったと推測されます。
